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2024.09.20

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沈黙の中にある会話

前回のブログの続きで、今回も言葉について書いていこうと思います。前回は、自分の考えを伝わる言葉にする「言語化力」の重要性について書きましたが、今回はその前段階、つまり自分の頭の中だけでおこなわれる会話(表に出ない部分)に焦点を当てて書いていきます。

 

 

言葉の幹と根は沈黙である

 

戦後思想界の巨人、吉本隆明さんは著書「芸術言語論」で「言葉の幹と根は沈黙である」と語っています。この考えを知ったとき、僕は衝撃を受けました。僕たちが普段使う言葉は枝葉で、沈黙こそが言葉の幹だと吉本さんは言うのです。

 

頭の中で語りかける言葉や、言葉にならない感情があります。そうした「言語化される以前の、自分の中だけで発している言葉」が言葉の幹であり、余計な飾りのついていないその部分こそ、「その人そのもの」であると。

 

相手に伝えるために、うまく言語化することが大事だと思っていた当時の僕は、「言葉」に対する考え方を大きく揺さぶられました。人に見える言葉は枝葉なんだと。その前の、自分との対話=沈黙こそが言葉の幹だと知った時の衝撃は今でも忘れません。

 

おしゃべりな人も無口な人も、考えている量は同じ

 

そう考えると、おしゃべりな人(人から見える言葉が多い)も無口な人(人から見える言葉が少ない)も、幹の部分は変わらないように思えてきます。

 

人は誰かと一緒にいると、黙っていても必ず何かを考えているからです。1人でいる時も、何も考えずぼーっとすることって意外とないですよね。表に出る「言葉の量」が違うだけで、内面的な「言葉の量」はどちらも同じです。

 

そもそも、おしゃべりな人がよく考えているとは限らないし、無口な人が何も考えていないわけじゃない。質やスピードの違いはあれど、どんな人でも頭の中で自分が自分としている会話の量は同じだと思うんです。幹は同じ。あくまで枝葉が違うだけで、吉本さんに言わせれば大した違いじゃないと。

 

これは、表に出る言葉だけに注目していたら気づかなかった視点です。

 

表に出る言葉も大事だけど、自分との対話も同じくらい大事。言葉が軽い人にならないために、自分に向けた言葉も大切にしていこうと思いました。そして、人と話すときも、言葉になっていない言葉が相手にもあることを忘れずにいたいですね。

 

 

それでも言葉を発していく

 

こう見ていくと、「言葉の幹は沈黙である」という考え方は言葉を否定しているように思えてきますが、僕はそうではないと思っています。

 

沈黙することは多くを語る以上に価値があるという意味の「雄弁は銀、沈黙は金」や、「言わぬが花」のようなことを言っているのではない。言葉を否定しているわけではなく、言葉の大切さを誰よりもわかっているからこそたどり着いた考えなのかなと。

 

自分で自分に問いかける。人に見せるような磨いた言葉ではなく自分にしかわからない言葉で、時には言葉にできない感情すらも。人には見えないが、それが言葉の幹であると。

 

このことを理解した上で、言葉に挑む。こんなにも自分が思っていることが伝わらないのかと落ち込む。こちらの意図とは別の捉え方をされてケンカする。悩む。ときどき思った通りに相手に伝わって喜ぶ。

 

言葉は時に人を傷つけることもあります。簡単に嘘をつくこともできます。だからこそ、内面的な沈黙の中でしっかりと考え、見える形にして発していくことが大事なのかなと思いました。

 

コピーライターとして言葉について考えることが多くなったので、大学生の時に知って影響を受けた考え方について書いてみました。前回の言語化の話と合わせて読んでもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします!

 

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